秋田至仁会とは?

秋田至仁会とは、社会復帰の意欲の意志が強くても、頼るべき親族や縁故者がなく難しい環境におかれている人たちに手を差し伸べ支援します。人生の再スタートへの架け橋になる施設です。

秋田の更生保護の父川村養助翁について

村養助翁の写真

川村養助氏は、元治元年(1864年)1月10日、秋田県山本郡下岩川村(現三種町)の豪農の長男として生まれ、25歳で下岩川村長、28歳で県会議員を務め、清廉な人柄と民権思想で多くの人々から厚く信頼されました。しかし、村有田地の小作米納入に絡み、僅かな手違いから業務上横領、文書偽造行使の疑いで反対派に告発され、業務上横領は無罪でしたが、文書偽造行使が有罪となり重禁錮2年の判決を受けました。判決の内容は、村吏の事務過失によるものでしたが、川村氏は自らの不徳による政治責任であるとして控訴せず、秋田監獄署に収監となりました。その後、川村氏は投獄中に受刑囚たちの相談相手となり、出獄者の社会復帰が極めて困難なことを知り、その救済を決意するに至りました。明治33年9月、川村氏は出獄後、親類縁者あげての猛反対にもかかわらず、私財を投じて有志とともに秋田出獄人保護所を創設し、当時の免囚保護事業を始めました。

そして、明治36年には全財産を寄附して財団法人に組織変更し、自ら初代の指導主事に就任しました。ところが、明治38年正月、収容者の一人が飲酒して保護所に帰ったため、同じ収容者に叱責されて口論となり、夜半に無断外出して帰りませんでした。これを心配した川村氏は厳冬の吹雪の町を終夜捜し回り、それが原因となって風邪から肺炎になり、同年8月4日、41歳の多難にして短い生涯を閉じたのです。その後、川村氏の本事業に対する精神と人間愛は多くの先人に引き継がれ、現在の更生保護施設秋田至仁会の礎となっております。

歴代会長

明治33年9月
川村養助氏が私財を投じて現在の秋田至仁会所在地に収容施設を設立し、秋田出獄人保護所を創設した。
明治33年7月
財団法人に組織変更し、検事正が代表理事、川村氏は初代主事として実務に当たった。
明治33年8月4日
川村氏が逝去した。大正8年7月、秋田出獄人保護所から秋田至仁会に名称を変更した。
昭和2年6月
会長に知事、常務理事に刑務所長を充てた。
昭和12年7月
事務所その他付属建物を増改築した。
昭和12年10月
寄附行為を改正し、会長は秋田地方検察庁検事正の職にある理事が就任することにした。
昭和25年11月
更生保護事業の認可を受け、更生緊急保護法による保護事業を開始した。
昭和27年
収容定員を12人から17人に変更した。
昭和31年
収容定員を17人から20人に変更した。
昭和43年5月
コンクリートブロック2階建を新築した。
昭和45年
収容定員を20人から25人に変更した。
昭和55年4月
収容定員を25人から20人に変更した。
昭和58年5月
全面改修工事を行った。
平成8年3月
鉄筋コンクリート2階建全面改築した。
平成8年4月
更生保護事業法の施行に伴い、更生保護法人に組織変更した。
平成12年7月
中間処遇施設の指定を受けた。
平成21年4月
特別処遇実施更生保護施設の指定を受け、福祉職員を配置した。
平成27年10月
薬物処遇重点実施更生保護施設の指定を受け、薬物専門職員を配置した。
令和2年12月
創立120周年記念誌を発刊した。
秋田地区(保戸野ブロック)の会員による調理奉仕
山本地区の会員による調理奉仕
会議室でのAED講習会